功利主義の誤解について

 ある人があからさまに自分の利益のための行動を取り、それが眉を潜めるものだとすると、人はその彼を「功利的」だと非難しますが、これはまったくの間違いです。「功利的」とか「功利主義」という用語はそういうものではありません。このケースの場合は、「功利的」ではなく、「実利的」「利己的」「打算的」という言葉を使うべきです。

 功利主義ほど誤解を招きやすい思想はないでしょう。世俗的には、功利とは利益しかも自己の利益を第一とする思想だと思われやすいのです。通俗的、打算的、即物的と受け止められかねません。大学教授でもその意味で使っている者もいるくらいです。

 そうなる最大の要因は日本語の「功利」という漢字の与えるイメージにあります。「功利」は “utility” の訳語です。 “utility” の意味することは「家庭への水道提供とか公共バスの提供とかの有益な公のサービス」(ロングマン英語・文化辞典)であり、その主義名である “utilitarianism” は一般には「行為の社会的有益性が多ければ多いほど良いとする信念」(同上)であり、倫理説としては「徳は功利に基づくものであり、行為は最大多数の最大幸福を促進する方向になされるべきである、とする倫理説」(アメリカン大学辞典)です。

 これから言って、 “utility” を「功利」とするのは相応しくないのは明らかであります。「公的利益」が適訳でしょう。同様に “utilitarianism” は「公的利益第一主義」とでも訳すべきであります。ここから明らかなように、功利主義の考える利益は個人の利益ではなく、「他人の利益」または「社会全体の利益」であるのです。つまり「利他主義」であるのです。このように功利主義とは「実利的」「利己的」「打算的」とは正反対の尊い思想なのです。

 この功利主義という思想はJ・S・ミルの活躍によって十九世紀に全盛を極めましたが、二十世紀では影の薄い思想となっていましました。が、二十世紀末以降、再び脚光を浴びるようになったのです。それは第一に、新自由主義やリバータリアニズムがアメリカを中心に大暴れし、ついにはサブプライム・ローン問題で経済は破綻し、世界同時不況になったことが人々の反省を促したのです。新自由主義やリバータリアニズムとは、自分独りが儲かれば、他の人が飢え死にしようが自分とは関係ない、という利己主義の極致の思想なのです。そこでその正反対思想である、利他主義の功利主義が顧みられることになったのです。私は自著『「新自由主義」をぶっ壊す』でそのことを力説しました(161-165頁)。

 もう一つは二十世紀後半になって、生命倫理学、災害倫理学、環境倫理学などが興ってくると、例えばある事件が起こって、大勢いる中で限定した人しか助えない場合、助ける人をどうして選択するかの基準は、功利主義をおいて他にはないのでないか、との指摘によってであります。

 もともと功利主義は社会全体のことを第一に考えます。社会の方向を決めるのは、社会の一定の条件を満たす人間、大概の場合は20歳以上の男女とか、のうち大多数の賛成を得たものを社会全体の意志として決定しようとします。これは多数決の原理であり、民主主義の考えです。逆に、多数の中で皆が納得できるような決め方とか、独裁制よりも多数参加の民主制がよいとする、より説得的な理由づけとしては、功利主義の考え方以外にあるでしょうか。

 功利とか功利主義といった用語は日本では馴染みのないものでしたが、その考えがまったくなかったかと言うと、そうではありません。3.11事件で明らかになった日本人の公共的な道徳心は昔からあるものですし、近江商人の「世間よし」の思想、石田梅岩の心学思想には公共に尽くすことが説かれています。ただ、その考えだけで社会を律すべしとの考えは出ませんでした。

 ということで、私は功利主義のよい点と言うか功徳を説明したのですが、功利主義には一つだけ欠点があります。それは基本的に数の論理によっていることであり、多数決や民主制といった問題ではそれでよいのですが、どういう政策、態度を採るべきかという質の問題には対応しきれないということです。それに答えられるのは同じ利他主義に立つ理想主義なのです。この理想主義については別途説明します。(2014年3月)

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