分析哲学の盛衰とフランス形而上学

 アングロ・サクソンの哲学は現在どうなってしまったのでしょうか。二十世紀はプラグマティズム、マルクス主義、実存主義、現象学、分析哲学などが主流派となってきたのですが、そのうちアングロ・サクソンはプラグマティズムと分析哲学をリードしてきました。しかし、分析哲学が下火となった1970年代以降は、アングロ・サクソンからは、哲学的著作としては、科学哲学、政治哲学(正義論)などの個別分野での著作は別として、主要著作は現れていません。

 それに代わって、戦後雨後の竹の子にように出てきたのが、フランス人哲学者とその著作です。ポストモダンと銘打って この頃はそれらの翻訳書とか解説書がわんさかと出ています。昔は哲学と言えばドイツであったのですが、今やフランスなのであります。現在のドイツで健闘しているのはハーバーマスくらいであり、現在フランスの哲学者で名を馳せているのは言うのも煩わしいくらいに大勢います。レヴィナス、フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、デリダ、バタイユ、ブローデル、ラカン、リオタール、セールなどなど。フランス人はレゾンの民(理由づけに熱中する国民性)であり、口角泡を飛ばして、果てしない論争を繰り広げる国民性だからこそ、と言えます。

 現在ドイツ哲学が振るわないのは第二次大戦時にナチスがユダヤ人を追放したことに端を発しています。大勢のドイ語圏在住のユダヤ人知識人が大挙してアメリカなどに逃れたのです。例えば、物理学・工学ではアインシュタイン、フォン・ブラウン、精神分析学ではE・フロム、ライヒ、経済学ではミーゼス、シュンペーター、ハイエク、ドラッカー、社会学ではシュッツ、ヴィットフォーゲル、政治・法学ではレーデラー、ケルゼン、アーレント、哲学ではライヘンバッハ、ノイラート、カルナップなどです。アメリカではなく、イギリスに移住したということでは、ヴィトゲンシュタインとポパーがいます。ただし、ヴィトゲンシュタインの場合、ナチス強大化以前からイギリスと行き来していますから、ここから外すべきかもしれません。

 ドイツ近辺のポーランド、ハンガリー、ロシアなどからの移住や、アメリカ以外への移住分を含めると、その数はほぼ倍になるでしょう。ナチスによる知識人の追放はブルボン王朝のルイⅩⅣによるプロテスタントの追放よりも厳しいものでした。知識人の優遇こそはその社会を堅固にする最良の政策のはずですが、ルイⅩⅣもヒトラーもそんな見識を持たなかったようです。その追放政策はともに国家の斜陽をもたらすものでありました。ナチスによるユダヤ人追放に端を発する知識人の大陸間移動は、文化知識面における追放国の没落、移動先国の繁栄をもたらしたのです。知識人の大陸間移動の問題は、これだけで一冊が書けるほどの大問題であったのです。

 ところで、今隆盛のフランス哲学とはアングロ・サクソンで主流の分析哲学や論理実証主義といったものではありません。現象学、実存主義、解釈学などと称するもの、いわゆる形而上学であります。理論展開しているものは、哲学の領域的には、哲学固有の存在論でもなく、認識論でもなく、価値論でもない、第四の分野です。その理論の性質は、真偽に関係なく、自分が勝手に考える(解釈する)世界観、人生観を書き連ねるだけのものです。ま、いわば自分勝手に哲学的な物語を作っているだけなのです。

 アングロ・サクソンで主流の論理実証主義では、文章あるいは命題は①分析命題、②総合命題、③情意文の三つに分けられます。①分析命題は、主語を分析して演繹的に述語が結果する類のものです。これは数学や論理学の世界です。演繹推理が正しければ、その命題は真です。②総合命題は主語を分析しても述語が結果することはなく、経験と帰納によって、主語と述語を結びつけています。これは経験科学の世界です。帰納推理が正しくて、かつ観察と実験によって、事実が確認できれば、その命題は真と言えます。③分析命題でも総合命題でもないものが情意文です。これには、話者の感情表現文、意志・意向表現文、価値判断表現文、自分だけに意味を有する文、形而上学的文などが含まれます。この種の文章や命題は①や②のように真を確定することができません。

 論理実証主義では、哲学は科学的でなければならず、哲学は分析命題か総合命題かで構成されなければなりません。この基準からいけば、フランスの哲学は科学的な哲学では断じてなく、論理実証主義が哲学として断固として避けなければならないとする形而上学であり、つまりそれは感情表現文、意向・意志表現文、価値判断表現文、自分だけに意味を有する文などから成っているのです。真とか偽とか言うことができない領域の議論なのです。すなわち、アングロ・サクソンからすれば、バカげた議論、無意味な議論、何の魅力もない形而上学の議論なのです。

 フランス哲学をそのように見なすアングロ・サクソンですが、そのアングロ・サクソンの哲学にしても、プラグマティズムはまだしも、分析哲学の隆盛は1970年代以降は勢いが止まったような感じなのであります。言語を鋭利に分析し尽くして、もうこれ以上は進展しようがないところで止まっているのでしょう。分析哲学では言語分析を精緻にして、哲学を科学的にすることを目指した結果、そういうことではもはや哲学を形成できないことを悟ったのでありましょう。

 論理実証主義に従えば、世界観や人生観を記述することは、情意文を記述することとイコールであり、形而上学であり、それを避けるとすれば、人間が持つ世界観や人生観の形成欲望を充足しないこととなります。加えて、「論理実証主義こそが採るべき哲学の道だ」との主張自体が分析命題でも総合命題でなく、したがって科学的には証明できないのであります。もう少し哲学的に言い直してみても、「哲学的命題は分析命題か総合命題であるべきだ」、あるいは「情意文は哲学から排除されるべきだ」という命題自体が情意文に属するものです。

 フランス哲学が科学的でないと批判されながらも、命脈を保ち隆盛になりえているのも、論理実証主義のこういう性質を見透かしているからなのでしょう。こういう実証主義の限界については、日本では70年前に河合栄治郎が気づいていましたし、警告を発していました(『学生に与う』1940年)。

 ここから言えることは、哲学が採りえる道としては、フランス形而上学のように、無制限に世界観、人生観を記述するのではなく、また論理実証主義のように、分析命題と総合命題に制限するのではなく、その文章は情意文に属するかもしれないが、存在論と認識論と価値論に限って、できる限り理性を働かせて理論展開することです。つまり、いきなりの形而上学建設ではなく、分析哲学の鋭利な緻密な論理分析の洗礼を受けた上で、実際的な理論構築に向かうべきであります。その一つの可能性として、カントの批判哲学の流れを汲む批判的合理主義の方向があるはずです。(2014年7月)

カテゴリー: エッセイ, 哲学・宗教論

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