老後の過ごし方の本

 メール討論している中間から、ある本の新聞広告の報告がありました。樋口恵子女史の『老いの上機嫌』(中央公論新社、2024年)という本の紹介がありました。これは日頃こういう形で本の紹介をしている私のスタイルに習ったものと思いますが、こういうスタイルの価値を認識してもらって、ありがたいです。我々は忙しいので、なかなか本1冊を完読するには時間と労力を要するので、こういった形で本のエッセンスを知らされると、それだけでプラスになることがあります。

 樋口流の老いまたは老後の過ごし方というのは、今まで私が紹介してきた新聞広告での本紹介ものとも類似するものです。①の「楽しげに生きよ」とか、⑥「老いをユーモアで笑い飛ばせ」とか、⑦「誰かの「微助っ人」になろう」とか、は共感が持てるものです。その他においても反対するところではありません。この間採り上げた『どうせ一度きりの人生だから』(アスコム、2024年)の内容とも一部良く似ています。

 樋口恵子女史のことをことを知らせてもらったので、同様の比較的高齢女史による類書を思い出しました。一つは曽野綾子の『老いの才覚』(ベスト新書、2010年)であり、もう一つは安西篤子の『老いの思想』(草思社、2003年)です。前者は本のスタイルとしては、樋口書に似ているようですが、訴えたい力点は違います。曽野書では、①「なぜ老人は才覚を失ってしまったのか」、②「「老い」の基本は「自立」と「自律」」、③「人間は死ぬまで働かなくてはいけない」などが目立ちます。ここに①、②、③は章を表します。ちなみに全8章です。

 もう一方の安西書は樋口書や曽野書と違って、自己の老いまたは老後の生き方を積極的に綴るのではなく、先人の古典に老いの生き方を探るというものです。例えば、①『徒然草』(忘れることこそ老境の上手な処し方)、②『風姿花伝』(老後の初心忘るべからず)、③『五輪書』(剣豪が死に臨んで考えたこと)、④老子と孔子(老いにも気づかぬ一途な生き方)、といった具合です。全12章です。

 こういうことがすらすらとなぜ書けるのかと言えば、これらは「老い」または「老後」のテーマについての収集書であって、トランクルームに置いてあるテーマ・パッキンを持って来ているからです。私は大中小さまざまのテーマを設定し、それに見合う書を収集し、それをテーマごとに保管しているからです。今回それら書物を大部処分したので、半分以上のテーマはカットせざるを得なくなりましたが、それでもこのテーマ「老いまたは老後の過ごし方」は残っています。

 女性3人の老年論に対して、男性の老年論としては、谷沢永一『老年の知恵、人生の英知』(海竜社、2006年)、渡部昇一『老年の豊かさについて』(大和書房、2004年)、渡部昇一『実戦快老生活』(PHP新書、2016年)がありますし、つい最近読んだ和田秀樹『どうせ死ぬんだから』(SBクリエイティブ、2023年)などもあります。

 『どうせ死ぬんだから』は返却期限が迫っていて、昨日ミスって図書館ポストに投函してしまったため、詳細報告はできませんが、体力が弱り、介護してもらう場所としては、病院が良いか、施設が良いか、自宅が良いか、では大いに参考になることがありましたし、うつ病や認知症にならないためには、あるいはそれらになったら、どうしたらよいか、実務的なアドバイスが有益でした。

 老いや晩年の中でも、学び、研究、著作をするという方向もあり、それについて述べているものとしては、稲永和豊『知的巨人たちの晩年』(講談社、1997年)、入江泰範『晩学のすすめ』(ダイヤモンド社、1996年)があり、いずれも所有しております。

 こういった本の最後に来るのは、世界の古典での老年論でしょう。それについては、以前「キケロの老年論」(2022年11月掲載、カテゴリーは人生・人間論)を書いてますので、それを参照してもらうのが良いでしょう。本日は「老後の過ごし方の本」ということでお送りしました。少しでも参考になれば、と願うところです。

カテゴリー: 人生・人間論

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